著者紹介
染谷 一(そめや はじめ)
1961年東京都生まれ。84年大学卒業後に渡米し、ウェストバージニア大学大学院修士課程を終了。専攻は文学・言語学、88年読売新聞社(現 読売新聞東京本社)入社。
医療情報部(医療部)、文化部などを経て、2015年から調査研究本部主任研究員、医療ネットワーク事務局専門委員、メディア局専門委員として勤務。現在は主に医療、健康の
ニュース情報サイト「yomiDr.]でコラムの執筆などを行う、社会学、心理学の側面から医療取材を続けている。
あなたは、何らかの依存を抱えていますか?
わたしは、軽度のニコチンとパチンコの依存症です。タバコは8ヵ月禁煙中で、パチンコは借金をしたことがないだけで、結構な金額を人生で浪費してきた人間です。
依存と一言で言っても、アルコール、薬物、ニコチン、カフェイン、ゲーム、パチスロ、競馬、競輪、競艇、宝くじ、ロト、闇カジノと種類はいろいろです。
「どうして人は依存するのか」著者もこの素朴な疑問をきっかけにこの本を書こうとしたといっていますが、私もそこが知りたいし、どうやったら依存から立ち直ることができるのか知りたい。
礼儀正しい、生真面目、勤勉、実直、清潔、他人への気遣い、控えめ、手堅い、、、、。こちらが、きまり悪くなってしまうような美辞麗句の数々は、ネットや動画サイトにあふれ返っている。
時代が平成、令和へと移行するにつれ、国内でも生活格差が広がり、漠然として「中流感の空気」はどんどん希薄にたってきたが、むしろ人々の品格は、洗練の度合いを深めたように感じる。街を歩いていても、買い物をしていても、交通機関を利用していても、人の振る舞いは、おおむね控え目で礼儀正しい。規範を重んじる、日本人の「かたち」は、社会全体の「かたち」を投影しているのだろう。
そう理解していた。
だからこそ、2017年に、厚生労働省(厚労省)が発表したギャンブル依存についての調査結果には、大変違和感を覚えた。
国内で、ギャンブル依存が疑われる状態になった人は約320万人(生涯を通じて)、20歳から70歳の総人口の3.6パーセントにもなると、そこには記されていた。(海外が感じている)ステレオタイプな日本人と、「運まかせ」「荒っぽさ」がつきまとうギャンブルとのイメージは大きく乖離している。
最近、ネットニュースや掲示板、SNSなどでは、よく目にする言葉に「同調圧力」がある。いわく、世界から賞賛される日本人の礼儀ただしさ、生真面目さは、「他人の目」という無言のプレッシャーから派生しているもので、「人が見ていなければ、日本人はそこまで洗練されているわけではない」との自虐をにじませた文脈において使われることが多い。
たしかに、SNSなどで、ときおり起こる炎上騒ぎや迷惑行為、匿名性が前提になった誹謗中傷などは、人間の規範や品格からは遠く離れている。それは同調圧力への反発ととらえることが可能化もしれない。
だが、本当にそうだろうか。同調圧力がなければ、素顔の日本人は、控えめでも手堅くもなく、運任せで荒っぽい博打好きなのだろうか。
筆者も含めてギャンブルに依存したことがなくても、勝負をしたくなる気持ちくらいなら理解できるはずだ。ほとんどは、子供時代に秩序ある学生生活を送り、大人になると社会での居場所を確保する。職業や家庭という表層的なアイデンティティを獲得してからは、「今日は昨日の繰り返し、そして明日も」。
社会のシステムは革新や変化を止めず、目まぐるしくアップテートを繰り返していても、大多数の人々の内面や日々の生活環境に限られた影響しかない。誰もが時間とともに心身を老い、少しずつ人生が終わりに近づいていく現実を実感しながら過ごしている。もちろん、いつだって、礼儀正しく周囲への思いやりを持ち、標準化された自分自身を律しながら。
そんな「穏やかな息苦しさ」に埋没していると、直線的な時の流れから逸脱したくなる衝動は誰にでもある。ときには「しびれる時間」「夢中になる瞬間」、そして「手堅く、秩序を守りながら生きてきた本当の自分とは少し違う自分」でもぶち込まない限り、「「100年時代」を迎えた人生は長すぎる。
私も、18歳ぐらいから、ほぼ一年を通じてパチンコをやり続けて約40年になりますが、パチンコをやる動機を考えたとき、趣味がないこと、お金がないこと(パチンコでお金を手に入れようと考えて)手軽にできる点、ストレスを感じた時にパチンコを打つとパチンコに集中できてストレスから解放(一時的でしかないのですが)できるからだといえます。
ようは、日常的な退屈さからの逃避です。
「あしたは贅沢な食事ができるかもしれない」「来月はもっと女の子にモテるかもしれない」「人生の一発逆転があるかもしれない」、、、、日常に飽き飽きしている、ごく平均的な日本人気質をターゲットとした客観的なマーケティング。それに加えて、裏の社会やネット空間では、非合法(であるはず)のギャンブルがあちらこちらにはびこり、さらに深い依存へと誘惑される機会がばらまかれている(これは国内に限った話ではないが)。
そんな日本社会に「カジノ」までが進出の時期をうかがっている。
皮肉なことに、新型コロナウィルスの感染拡大が本格化し、街から人の姿が減った2020年4月、キャンブル依存への集団治療が保険適用となった。
キャンブル依存への保険適用は、タイミング的にも、2018年10月に施行された「ギャンブル依存症対策基本法」を受けての措置であることは明白であり、さらに、背景には統合型リゾート(IR)設置にむけた、IR実施法施行令(政令)の決定がある。あらためて、説明するまでもないが、この場合の統合型リゾートとは「カジノ」の別名と考えていい。勝負好きの国民がたくさんいて、ギャンブルの機会があちこちに散らばっている日本の土壌に、さらに国が主導した大規模な施設をつくりましょう、ということだ。2023年4月、大阪府・市と長崎県の整備計画を協議するIR推進本部の会合が開かれ、政府が大阪の計画について認定を了承した。まずは、大阪湾に浮かぶ人工島、夢洲でカジノつき施設が開業することが、すでに既定路線を突っ走り始めている。
本書は「反IR」を訴えることが目的ではない。ただし、「ギャンブル依存」という医療的な問題の一つの断面として、「カジノ」が日本を豊かにする」というイデオロギーに対しては、少し思うところはある。
この本では、この後6つのケースのギャンブル依存症の人々の半生が書かれているが、どのケースも「依存症」という名の病理を嫌というほど私たちに見せつけてくる内容となっています。依存症になる人々は、社会的立場の高低でも知能の高低でもなく発症する可能性があります。
違法薬物と同様、ギャンブルは、依存者や家族の人生を大きく変えてしまう破壊力を持ち、その背後に反社や詐欺まがいの無法者の陰がちらつくケースも少なくありません。しかも、合法・非合法を問わず産業として成立している限り、依存者が増えるほどギャンブル機会の提供者にとって「おいしい状況」になるのです。
日本人にギャンブル依存症が多い最大の理由は、そんなビジネスモデルが歴史的にも社会構造的にもあちこちに、しかも当たり前の存在として張り巡らされていることにあるのです。
ギャンブル依存という厄介な存在を消し去る方法は、、、、たぶんない。それでも、誰かが依存のトラップに引っかかったとしても、そこから救い出せる社会的な理解と土壌を作ることで、本人や家族の悲劇的な結末は最小限に抑えることはできる。「依存しちゃたのなら、なおせばいいんじゃない?」と誰もが考えられる、社会全体の鷹揚さがそのスタート地点となる。
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